『あなたたちはあちら、わたしはこちら』
大野左紀子(著者)×宮田優子(大学講師)対談
宮田優子さんは、これまでの大野さんの著作に全て目を通されていて、その都度たくさんの助言を大野さんへとなさった方として、著者たっての希望で対談が実現いたしました。女性と、また女性同士を巡る諸問題についてのお二人の対話をお届けいたします。
Part.1
中高年という言葉を聞いた時に授業を思い出したんです。みんなが、メディアが中高年っていう言葉を死語にしようとしてるところがあって。(宮田)
宮田(以下宮) 私ね、帯に書いてあるように、自分の主張のためにではなく、つまり、自分の主張はなるべく使わないで、映画に沿った形で意味作用を解きほぐしていく作業をやってみました、っていうことなので、大野さんの女性論じゃなくて、大野さんと女性たちの対話として読みました。各論ともきちんと収まりよく、豊かな表現で書いてあって、なるほどねと思いました。同時に、各論があちこち喧嘩したりしてね、なんていうのかしら、ここではこう書いてらっしゃるけど、こちらではこう書いてらっしゃる、論が喧嘩し合うところがあって、そこが面白いところかなっていう感じもしました。
大野(以下大) なるほど。
宮 それは、全体的にまとめようっていうことをまず脇に置いて書こうとされたからですか?
大 女性論として全体をまとめるということは、脇に置いていました。ひとつひとつの映画の中に没入して感じ取ったことをどんどん言葉にしていく、そのことにそれぞれの章で集中しているので、ひとまとまりのものとして読むと、矛盾してるところもあるかもしれません。
宮 それと同時にね、だからどこからでも読めるという利点があると思います。始めから読まなくても、ちょっと興味がある章から読んでみようというような間口の広さ、そういうものを持ってる本だなって思いました。
大 そう取っていただいてよかったです(笑)。
宮 でもまた、どうして中高年を選ばれたんでしょう。
大 若い女性についての私の言葉は、だんだんリアリティがなくなってきてるのではないかという思いが、まずありました。一方で、年をとっていく自分を直視することはつらい。その時、映像の中の中年女性を通して、その向こうに自分を透かし見ることだったら出来そうな気がしたんですね。だから半分は自分のため、老いていく自分を見つめるための回路の一つとして、映画を持ってきたという感じです。
宮 私は最初、中高年という言葉を聞いた時に授業を思い出したんです。ファッション雑誌のことを話してますと、最近はアンチエイジングの波が凄くて、みんなが、メディアが中高年っていう言葉を死語にしようとしてるところがあって。平子理沙みたいに何歳だか分からないような中高年が出始めてる状況があるんです。
大 中高年っていう言葉を使わなかったらどんな言葉を使うんですか。
宮 分からない。
大 美魔女ですか。
宮 美魔女っていう言葉もあまり学生は使いませんね。
大 そうですね。
宮 とにかく何歳か分からない。みんな、特に男の子は女性が何歳か分からない。そういうふうに女性がなってきてる。女性を街で見ても、学生は年齢が分からないっていうふうに言ってますね。
大 それは傾向としては言えると思います。でも、そこまでアンチエイジングを追い求めてどうするんだろうと。実際に肉体は老いていくわけですし。もちろん積極的に老いに向かうっていうところまでは私もいかないし、歳より若く見られるとヤッホーとか思ったりする自分もいるわけですけど、自然な加齢だとか、年齢の受け入れ方というのが見えにくくなってる中で、平子理沙などは私はやはり奇形的に見えます。顔がまったく違っちゃっていて。かと言って、皆老いるままにしてるかっていったらそうじゃないわけで、それぞれあがいてる。
宮 そうですね。
大 やはり老いが、成熟と結びつかなくなってるのが大きいと思うんですね。プラスの価値観とは結びつかなくなっている。内面が成熟していくのと比例して外見は老いていくものというきれいごとを言ってみても、虚しいこだまがただ返ってくるだけみたいな感じです。そういう状況の中で、どこか別のところを迂回してみないと、老いとか、この先どう生きていくかを考えることが出来なくなっているということもあったと思います。ただ、そもそも映画というのは私にとっては逃避先で、現実から逃げるために観るというところがありました。子供の頃から物語に逃避していて、学校でいじめられたこととか、親が凄く厳しいこととかを忘れるために物語の世界に逃げ込むというのが続いていたんですけど、やっぱり大人になってもそういうところがあって。DVDを山ほど借りてきてずーっと観てた時期もありました。毎日が苦しくてしょうがなかった時ですね。そういう逃避先ではあるんだけど、自分をもう一回現実に立ち向かわせてくれるような物語の力というのもあるということを、改めて自覚し始めて。その力はどういうところから出てくるのか、具体的に言葉にしてみたいとずっと思ってました。でもまあ、この本の前書きで書いてることは、それとは微妙に違いますね。なるべく同世代の女性に手にとってもらいたいために「老いることについていろんなヒントが映画の中にあるんじゃないか」って書くのは、いかにもな売り文句です(笑)。
宮 啓蒙書かしらって思ってしまいました(笑)。
大 でもそういうところで、ちょっと読んでみようかしらって思う人もやっぱりいるんじゃないかと。
宮 ええ。
大 一方で書き手が自分でこういうことを言うのはどうかなってことも、書きながらちょっと思いましたけど。
宮 ヒントが詰まってるかもしれませんよって言った後でね、最終的には自分で自分の問題は解決するしかなく、人生はどこまでも自分自身との闘いであることが身に沁みてきますという、厳しいお言葉がありまして。中高年として生きていくってことはそう簡単じゃないんだ、ヒントはあるけれども、でも最終的に考えるのはあなたなんだよ、映画の主人公はいわゆる創造物であって、それを観てヒントを得ても、あなたが自分で立ち回らなくちゃいけないんだよっていう厳しいメッセージを最初から送られていて。
大 書き手の中の、こう言いつつもホントはこう思ってるっていうところが出てますね、それは。
宮 あと表現が豊かで、一つ一つ楽しめて、各論の後にいわゆるビジュアル的な、元美術家としてのキャリアを活かした形で映画の美術やファッション、そういうところもコラムで書いてくださっているので、もう映画を観なくてもいいかしらって(笑)。
大 (笑)。
宮 そう思って、何回も口絵のイラストを見ながら読みました。これとっても便利なんですよ、イラストが。ああこういう女性なのねって何回も行きつ戻りつしつつ、読む体験が楽しいっていう感じが私はしました。
大 ありがとうございます。イラストを見ながら読んだところで完結してしまうっていう点では、うちの母などが完全にそうで、一本も観たことないんですよ、この中で取り上げた作品を。だけどもう「お話」として楽しんで、絵があるしねって言って「時々絵をジーッと見て、この人はこういう人だったわね、この人も頑張ったわねって思って読んでるのよ」って。
宮 そうそう。私もお母様と一緒の読み方です。『カレンダーガールズ』は、これでもう誰にでもなんとでも言えるわ、っていう気持ちにしてくれる、親切な本と言いますかね、そんな感じがしました。
男性は要らずに、女性だけで、二人でやっていくとか、あるいは三人でやっていくとか、そういうものを女性が求めてるところがあるのかな(宮田)
宮 もう一つ、私が思ったのは、物語のほうに焦点を当てて書いていらっしゃいましたけど、やっぱり映画の大きな要素としてあるのが視線で、誰の眼差しのもとでその女性が描かれているのかっていうことも大きいんじゃないかしらってことです。たとえば飯田蝶子さんの章では、確かに忘れられた日本の優しさ、主人公が、自分はちっとも優しくなかったってことを反省するところが感動的だってことを書いていらしたけど、その脚本を書いたのは小津安二郎であって、また女がこの役割をするの?っていう感じがするのね。
大 はい。
宮 その視線は、書く時にどう考えていらっしゃったんですか。
大 そこはもう切り捨てました。それを考えていくと、当然のことながらジェンダー論になっていくので。
宮 ええ。
大 「物語を語る者の物語内の女性を眼差す視線」への批評ですよね。そうした脚本家や監督の視線まで考察の対象としていくとおそらく、「男の描く女の問題」はたくさん出てくると思います。女性の監督も入ってはいるけど、男性の監督が圧倒的に多いですから。で、それをすると、物語で描かれたひとりひとりの女性像、その人ととことん付き合っていく形で書こうと思った中心が、ボケそうな感じがしたんです。どんなに美しく感動的に描かれていても、そのまま呑み込まず、一度相対化しなきゃいけなくなってくるじゃないですか。それは敢えてしない。所謂ジェンダー論やフェミニズム批評に落とし込まないようにしたかったんです。だから物足りないというか欠けてるものとして、眼差しということを宮田さんに言われるのは凄くよく分かります。
宮 うん。
大 小津安二郎の女の描き方って、ある意味反動的なものがありますからね(笑)。それはあるけど、今回批判的に書くことは一切しませんでした。
宮 それはなかったですね。
大 映画ライターの真魚八重子さんの『映画系女子がゆく!』はそうではなく、いろんな映画を紹介しながら批判もちょこちょこ入れていらっしゃるんですね。結末はこうじゃなくてもよかったんじゃないかとか。そういう視点は、今回は最初から封印して書きました。
宮 初めから意識されていたんですね。
大 そういうことも出てくるかなってちらっと思ったけど、肯定的なほうにだけ向かってみようと。物語の中に素朴に入って書くというふうにしたかったんです。
宮 だからですね、私、大野さんのこれまでの作家活動というか、キャリアをいろいろ知ってるもんだから。いわゆるフェミニズムでバリバリでやっていく、そういうフェミニストは私の意見聞かなくてもいいです、っていうような態度を取られていた時期があったので(笑)。
大 そうでしたっけ(笑)。
宮 それにしては、フェミニストだったら肯定するような生き方をしている岩下志麻に対して今度はキツくないなと。そういう理由だったんですね。
大 いわゆるTHEフェミニストみたいな人が分かってくれなくてもいいですよみたいなことはありましたけど、岩下志麻のあの役ってもっと不器用な感じじゃないですか。いや、でもそのフェミニスト云々からそこに繋げる観点ってどうなんだろう。岩下志麻に対して優しい?
宮 優しく肯定的に彼女の生き方を捉えてらっしゃった。
大 そうですね。ただ肯定的というよりも、その生き方の中の何かが決定的に欠落した感じを指摘しつつ、でもこの人はこういうふうにしか生きられなかったんだ、そこに寄り添いたいっていうところですよね。それは一方に、桃井かおりが演じた鬼塚球磨子みたいな女性がいることによって、改めて岩下志麻を肯定せざるを得なくなったという感じです。
宮 それって、いわゆるTHEフェミニストに欠落しているような部分に理解を示しているってことじゃないですか? やっぱり、優しいですよ。大野さん、寛容になられたんですね。次の話題に移りたいんですが、これは次の対談のお相手、清田さんの意見なんですけど、最近ダブルヒロインが多くなってきましたよね。NHKの朝の連続ドラマでも、ダブルヒロインが多くなりましたし、『NANA』もダブルヒロインですし、昔の女性小説もずっとそうでした。球磨子と岩下志麻の役のように、ダブルヒロインが女性ものに多くなってきてるんですよね。『イブの総て』に関してもそうですし『クロワッサンで朝食を』もダブルヒロインになってますよね。で、男性がダブルヒーローっていうのはあんまり見たことがないっていうか。
大 そうですね。
宮 だからそういうところは意識されたのかなと思って。
大 これは本当に、今言われて初めて気がつきました。ダブルヒロインということは、作品を選ぶ時には意識してませんでした。ダブルヒロインものっていうと、男性という項があった上で女性がいて三角関係にしたりとかはよくありますが、そうじゃなくて、男性という項はなくて女性二人で‥‥‥。
宮 成立する、男性がいなくても大丈夫という、そういう世界が出てきてる。
大 実は次の連載で扱おうと思ってるのが、肉親関係ではないやや年の離れた二人の女性が出てくる映画なんです(サイゾーウーマン連載中『親子でもなく姉妹でもなく』)。一人ではなくなぜか複数の女性の関係性にしたかったんですが、今そうやって指摘されて、やっぱりそこに私は引っかかっていたんだなと思いました。NHKの連続ドラマは最近あまり観てなかったんですけど、ダブルヒロインものが多いんですか。
宮 たとえば『花子とアン』ですね。あれはどうしても一人を主人公にしなくちゃいけないから、花子のほうが大きくなったんですけど、もうひとり、仲間由紀恵演じる、石炭王と結婚した人が、ヒロインに匹敵するほどの映像の強さがあるんです。一応、フォーマットにのせるために花子だけを押し上げているけど、でもあれはどう見てもダブルヒロイン、そういう感じですね。アナ雪ももちろんそうですし、昔からある少女小説ものも、男性は必要ない。女学校の女性二人。そういう伝統があるのかなと思って。
大 伝統ですか。
宮 伝統を作ってきたんだと思いますね、やっぱり。女性が惹かれる何かがあったんじゃないかな。男性は要らずに、女性だけで、二人でやっていくとか、あるいは三人でやっていくとか、そういうものを女性が求めてるところがあるのかなっていう思いで、最近のダブルヒロインの流行を私は感じています。
大 なるほど。なんとなく符号するような現象ってきっといろいろあるんでしょうね。これまでのヘテロのラブロマンスに、前のような人気がないのは分かるんですね。で、男性が主人公だった映画シリーズの中に、女性ヒロインが出てくる。さっき『マッドマックス』の話をしてたんですけど、女性が非常にクローズアップされていますね。単独のヒーローを描くいわゆる従来の英雄譚みたいなものはリアリティがないっていうことと、男なしのダブルヒロインものの現象とはパラレルにあるのかも知れない。
宮 そうかも知れないですね。そこはまだしっかり見ていかないと。今進行中のことなのでよく分からないですね。どんなものをみんなが求めてきているのかは、私もまだ分からない状況です。