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『あなたたちはあちら、わたしはこちら』
大野左紀子(著者)×真魚八重子(映画文筆業)対談

女性が出演する映画を読み解いていくスタイルの本書ですが、先行する類書として、2014年11月に発売された真魚八重子さんによる『映画系女子がゆく!』があります。年齢を重ねた女性の出演する作品を取り上げる本書に対して、真魚さんの著作は老若含めた女性の問題に切り込んでいき、独自の視点が多くの読者から共感を得ています。そんな映画文筆業・真魚さんをお迎えして、本書について、そして映画のお話を伺いました。

Part.2
人の顔を描くのが好きなので、映画に出てくる女優の顔を一度じっくり描いてみたいという欲求がありました(大野)





大 私の本では、あまりジェンダー論は意識せずに、作品の中にどっぷり浸って感じたことをグリグリと、狭くてもいいいから突き詰めてみようと。ひとつひとつの映画についてどういう結論を出そうとか、落としどころをあまり決めないで書いていくっていうスタイルでいったんですね。で、トータルとしてある年代以上の女性の姿みたいなものが浮かび上がってきたということはあります。ただ最中は、見えているものについて、そこにどういう意味があるのかを自分の言葉で詳細に解き明かしたいという欲望が非常に強かったです。

真 映画と女というのは絶対だったんですよね、この本は。

大 そうですね。女については、私は人の顔を描くのが好きなので、映画に出てくる女優の顔を一度じっくり描いてみたいという欲求がありました。映画を観て何か書きたいのと、女優の顔を描きたいという別個にあった欲求が結びついた時に、女性の出てくる映画にしようってなったんですね。自分が中年だから、じゃあ中年以上の女性の映画にしようと。

真 ここまで絵が充実してる、絵画作品のような絵がバーンと強烈に出てくる本は珍しいですよね。これで結構、意識が奪われてしまうというか、この絵とセットなんだなと思いながら読みました。やっぱり書き手の「私という書いてる人間」というフィルターは、文章から絶対省けないので、大野さんの人格みたいなものの影響があるんだろうなって。ふわふわっとそういう気配を行間から感じながら読みました。

大 それぞれの冒頭に導入として、作品と関係のないちょっとした小噺みたいなものを書いています。想定した読者としては映画好きだけでなく、凄く映画が好きっていうわけじゃないんだけれども、女性についての考察だったら読んでみたいっていう人も取り込みたかったので、いきなり映画の話から入るとちょっと読みづらいかなということで導入を作ろうと。で、そこだけ見ると、ほとんど自分のことを書いているなって(笑)。ただ、その内容にあまり引っ張られることなく作品について書いていって、最後にリンクするならするでいいというバランスでした。

真 「優しい女」という章で、『流れる』の田中絹代を選ぶっていう、そういうのを抽出する視点が面白いと思いました。そういうチョイスって、ちょっと変わっているなあと思って。確かに彼女はまさに描かれてる通りの人なんですけど、『流れる』の田中絹代を選んでくるのは、凄く面白い観点だなって思いました。

大 そうなんですか。

真 いいとこ突いてるなあと思って、凄く感心して読んでました。

大 ありがとうございます。田中絹代は膨大な作品に出てるから、もちろん全部は観てないですし、10本も観てるかどうかくらいなんですよ実際は。観てる本数は圧倒的に少ないのです。偏っていますし、戦前の映画になるとまたグッと減りますし。ただこの『流れる』という作品は凄く好きで、成瀬作品もやっぱり好きで。好きでというかクセになるというか、観だすと次々に観たくなってきます。

真 そうですね。その中でもこの田中絹代って凄いヘンな役で、よくこんな役受けたなっていう気もするんですけど。

大 また原作とは違うんですよね、イメージ的に。原作はここまで利他的な人じゃないというか。ちょっとありえないくらいの、虚構性の強い役柄だなって。今だったら描くことのできない女性像だし。それだけにひきつけられてしまって、こういうのが優しい女だとすると、私はまずなれないなと。

真 この人、最後は忠義立てみたいな感じで、余所に移ったりもしないんですけど、自分自身すらもないじゃないですか。名前も適当に呼んでくださいっていう感じだし。あれはホントに妖精のような不思議な存在ですね。

大 妖精! 的確ですね、その妖精というのは。幸田文の原作のほうでは彼女は置屋から去っていくし、置屋の女たちのことももっと辛辣に見てる。成瀬巳喜男は女性のどうしようもない感じを描く人だと思ってたけど、この田中絹代だけはちょっと違いますね。

真 そうですね、まともな人ですね。あとは……成瀬は男も女も汚いじゃないですか、やることが。その中では、この田中絹代だけは本当に優しいし、理想的な人間の姿ですよね。

大 恐らく、山田五十鈴が演じている役のある種の生々しさを際立たせる役として、非常に対照的に描かれているのだろうと。

真 彼女がいるから俯瞰で見られるというか、いろんな女性たちがいる中の、彼女がつなぎ目になる感じですよね。彼女が平熱の常識の軸になると思います。

テーマがセクシュアリティのことなのか、それとも生き辛さの問題なのか(大野)

大 そう言えば真魚さんが挙げてらした成瀬の『浮雲』ですけど、映画のベストテンに必ず入ってくるのが異様なほどだって書いてらして。

真 気持ち悪い映画です。

大 私もそうです。最初に観た時に、なんなんだこの二人はって。

真 ねぇ! 社会道徳からメチャクチャ外れてる人たちだから、なんでこれをみんなベストテンに入れるのか、ほんとにいいのか?っていう……。

大 人間のどうしようもなさみたいなものをここまで描くんだなという驚きが一つあるのと……。

真 金、金って話じゃないですか。金と色と。みんなそれをいい日本映画だと思って観てんのかあと思って。

大 (笑)。

真 高峰秀子も、途中で米兵相手のパンパンになったり、あと義理の兄が嘘くさい宗教団体を始めて、好きじゃないのに金があるから彼のお妾さんになって収まったり、凄い倫理的によくない人たちなんですよね。

大 ただ私は半分くらいは、この人きっと、この場ではこういうふうにするしかなかったんだろうなっていう印象があります。成瀬作品の高峰秀子は愚痴ばかり言ってるって印象が強いんですけど、これなんか特にそうで、文句タラタラでいながら、でも結局こうするしかなくなっていく。本当はどこかで方向転換できて、真人間の生き方があったんだろうけど、やっぱりどこか弱さがあって流されてしまった。そこが私の中のダメな部分を刺激して、半分は共感するんですよね。だからあんまり、観ていて責める気にはなれなくて。

真 共感するし、別におんなじようなことはするんですよ、他の人間もだし私も。ただ、客観的に観てて、よくろくでもない人たちを延々と描いたもんだなと。映画はホントにただの作り物なので、小津みたいな映画だって作れるわけだし、でも成瀬はこういうものを撮りたいんだな、こういうえげつない人間たちを撮りたいんだなって。えげつないえげつないって思いながら、でも凄い好きです。

大 (笑)。

真 好きなのはすっごい好きで、成瀬の特集があると通っちゃうし。ただ道徳的に自分も悪いことするから批判できないっていうこともないなと思っていて。自分がやってることも悪いし、ここで描かれてることも悪いっていうふうに言うことは出来ると思う。

大 (笑)。最後に男と船に乗って屋久島に行って、ずっとこだわってきた男とやっと一緒になれたんだけれど、でも自分は死ぬという、とんでもなく絶望的なところに女性を置くところが、成瀬巳喜男ってちょっとミソジニーがあったのかなって思いたくなるくらいの、そこまで酷い目に遭わせなくてもっていう印象も受けたんですけど。

真 ミソジニーというか、現実にモラハラする男とかいるので、そういうのを認識してたんだなっていうのは思います。

大 監督が?

真 はい。「凄いこの男キモいことするな」っていうのを観察してて、それを映画に取り入れるのが成瀬だなと思います。

大 男性も女性もかなり突き放してますね。

真 深くは共感はしてないと思うんですよ。現実にいるから描いたっていう感じだと思うんですね。ところでこの本でも取りあげられている映画ですが、『めぐり合う時間たち』のジュリアン・ムーアが、出奔してどうしていたのか、どう想像しました?

大 彼女の独白の中には出てきますよね。

真 確か「カナダの図書館で働いてた」と話していたと思いますが、彼女はレズビアンですよね、要は。

大 はい。

真 同居するパートナーを作るところまでいったかどうかは分からないけれども、やっぱり、同性の恋人を作って、生きられるところを探していたんだろうなぁと。

大 ええ。まず異性愛の中では生きられないってことははっきり自覚して、でも同性の恋人を作れたかどうかは分からないままですね。

真 分からないし、語ってないし、息子の自殺によって戻ってきますけど、今パートナーはいないような、どこか孤独な感じがある。

大 そうですね。あの年代の女性にしてみるとかなり苛酷な生き方で、セクシュアリティに関して自分の求めるものは掴みきれなかったんでしょうね。バージニア・ウルフのほうは、もともと同性愛者だったっていう話もありますが、彼女もやっぱりそれで自己実現する感じじゃなく死んでいくし、ローラも厳しそうですよね。そしてメリル・ストリープが演じた現代のクラリッサは、ローラとバージニアが求めたものを手に入れているにもかかわらず、幸せじゃないという関係になっている。つまり他の女性がずっと求めてきたものを彼女は持っているのに、なぜ幸せだと思えないんだろうということが字余りのように残るんですね。そういう中でローラが最後に出てくることで、手には入らなかったけど、それに一直線に向かった、過酷な中で自己選択しようとした女性の姿がくっきりと浮かび上がってくる。そういう投げかける感じで終わってるんじゃないかなと思っています。この映画非常に難しくて、12本の中でこれはまだ書ききれてないというのは残ってるんです。観るたびにいろんなものが見えてきて、どこに重心を置いて書くかっていうところでも違ってくる映画だなあと思います。

真 そうですね。

大 真魚さんは、この『めぐり合う時間たち』、本の中でチラッとローラのことを書かれてましたよね。

真 あ、書いてましたっけ(笑)。

大 『レボリューショナリー・ロード』について書かれていた章です。規範ではなんともし難いセクシュアリティの問題のことを。

真 はいはい。

大 その、セクシュアリティのところに本当はもっと重点を置いて書くべきなのかなとも思ったんですけど。

真 そうなんですよね、『めぐり合う時間たち』は完全に、セクシュアリティの問題が凄く大きいんだけれども、ただそれで彼や彼女たちは自殺するわけではなく、セクシュアリティの問題と別の何か生き辛さみたいなところで死んでいくから、それを分離する作業は必要なのかもしれない。

大 そこは難しいところですね。映画もテーマがセクシュアリティのことなのか、それとも生き辛さの問題なのかっていう、わりとどっちでもとれるような微妙な描き方をしてるようで。だからちょっと迷いながら書いてるのが出てるなと思いました。



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