『あなたたちはあちら、わたしはこちら』
大野左紀子(著者)×真魚八重子(映画文筆業)対談
女性が出演する映画を読み解いていくスタイルの本書ですが、先行する類書として、2014年11月に発売された真魚八重子さんによる『映画系女子がゆく!』があります。年齢を重ねた女性の出演する作品を取り上げる本書に対して、真魚さんの著作は老若含めた女性の問題に切り込んでいき、独自の視点が多くの読者から共感を得ています。そんな映画文筆業・真魚さんをお迎えして、本書について、そして映画のお話を伺いました。
Part.3
男のどうでもいいのとおんなじように女もどうでもいい感じで殺されるのは、平等だなあと思って(真魚)
真 『マッドマックス 怒りのデス・ロード』は、どう観られました?
大 あんまり前情報は入れずに劇場に行ったんですが、とにかくあれよあれよという間に終わりました。あれ、単純に行って帰ってくる話じゃないですか。
真 そうです。
大 行きて帰りし物語そのものですよね。それと映像と音の素晴らしさに呑まれてしまったというか、血と砂と鉄とスピードが圧倒的なスケールで迫ってきて、そういう意味でも今までのシリーズの中で一番シンプルで美しかったです。ヒロインが結構クローズアップされてるんですけど、フェミニズム的な観点っていう話は後からいろんな人が語ってるのを読んで、確かにとは思ったんですね。でもそれは今回の物語を作っていった結果であって、原因になるほどではないと思います。シリーズの一番最初は、まだマックスが警官で、いわゆる復讐譚でしたよね。
真 はい。
大 その後は、子供や何かを失って喪失を抱えた男が、誰かを救うことによって自分も回復していく物語。そういう物語が「2」から始まって、「サンダードーム」もそれに近い感じだったと思うんですね。「サンダードーム」ってあんまり好きじゃないんですけど私は(笑)。なんか話が前半と後半で分裂しちゃってて、最後にとってつけたようにティナ・ターナーがまた出てきて、無理やりまとめたっていう。で、今回もマックスは最初から空っぽな、喪失を抱えたままでいて、この人にはトラウマがあるんだという映像がしつこいくらい出てきますよね。しかしやっぱり誰かを助けることによって彼も回復していく、これまでと同じ話型にはめている。と同時にフェミニズム的に言えば、男女共同参画社会みたいな感じで(笑)、弱い男と女が手を取り合い共闘できるんだっていう話にもなっている。それは恐らく、ハリウッド映画とか特に最近のディズニーはそうですけど、フェミニズム的な要素を取り入れることで女性にもアピールできるということだと思います。あとは、ヴィジュアルから思い浮かんだのが『エイリアン3』です。単純にヒロインも他の男たちも丸坊主が似てるだけじゃなくて、男ばかりの囚人の星に来たリプリーが、最初は囚人たちと反目し合って、セクハラを受けたりもするんだけど、最終的にはより強い巨大な敵のために闘う。直接的な敵はエイリアンですけど、それを操ろうとしてる会社の人間が一番の強者ですね。そういう、敵対していた弱者の男と女が共闘する話型として、似ているなと感じます。ただ、『エイリアン3』のほうは最後にリプリーが溶鉱炉に飛び込みますよね。エイリアンを孕んでいる体でこのまま自分が生き延びたら、強者の男たちの思うままにされて犠牲者が増えるので、今自分が死ぬしかないと。つまりは救世主の死みたいな形で終わるわけです。それに対してマッドマックスは、闘って勝って、帰還して、「救世主だ」って讃えられるので、リプリーの恨みをフュリオサが晴らした、みたいな関連性が頭の中に浮かびました。
真 私は、「鉄馬の女たち」という熟女老女集団がいて、フュリオサが帰るのを手伝ってくれますよね。その時に、顔も分からないような感じで、バカスカ殺されていくんですよ。ああ、女がこんなふうに殺されて、嬉しいなと思って。
大 (笑)。
真 女の死って、大事に扱われたり、美しく撮らなきゃみたいなのがあるけれども、この映画では男のエキストラと同じように、女も砂まみれになってゴロゴロ転がって遠ざかっていって死んで終わりっていう、男のどうでもいいのとおんなじように女もどうでもいい感じで殺されるのは、平等だなあと思って。私はそこをフェミニズム的にいいなと思いました。
大 確かにそういう意味ではまったく平等に扱われている。
真 やっぱ女もこうやって殺されたいよなあと思って(笑)。
大 (笑)。そう、鉄馬の女ってなかなかグッと来るものがあって、やっぱりそれはおばさんや老婆でなければならなかったことも含めて。
真 そう。
大 あと、行って帰ってくる物語ってたとえば、冒険に行き、向こうで勝利を得て帰還するのが典型的なヒーロー物語だと思うんですが、この場合は、行くのはとにかく逃げるため。逃げていった先で緑の地はないんだと絶望し、今度は奪還のために闘いながら戻ってくる、その逆転したプロセスが凄く新鮮でした。フュリオサが膝を折って号泣するじゃないですか。じゃあここで諦めるのかなと思うと、行こうとするわけですね、鉄馬の女たちと一緒に塩の湖を渡って。あまり現実的な判断をしないんです。女たちはどうしても夢を諦めきれなくて、いちかばちかに賭けて自分の感情に任せて行こうとするのを、現実的な理性的な判断で止めるのが男っていう構図がちょっと見えて、そこはやっぱりマックスに花を持たせてるなと。
真 まあ、あのくらいしか、ろくな活躍しないですからね、マックスがね(笑)。
大 それから今までのシリーズでの「血で血を洗う」っていう要素が、「母乳で血を洗う」になってる。まさに母乳で顔の血を洗う場面があったし。そして、なんていうのかずーっと突っ走っていて、音楽も素晴らしかったと思いますけど、切迫感を高めている割に、悪役たちがコメディというか、漫画のキャラクターのようです。
真 そうですね(笑)。
大 こんなのに負けるわけないだろっていうぐらいの、滑稽な感じがしたんですけど(笑)。最初のほうでも、イモータン・ジョーが醜い体を白く化粧してもらってマッチョな透明のカバーみたいなのつけて、なんか裸の王様的な扱いだし。大の男がミルクを飲んでるのはおこちゃまだよねってイメージもあると思うんですよ。こいつらいくら凶暴でも、やっぱりママのお乳を飲んでる僕ちゃんじゃないかって。
真 あの映画の中の女性たちって、性的な快楽を与えるためにいるわけじゃなくて、母親になるためにいるんですよね。だから、母乳を搾取するためだけのミルクタンクみたいな女性がいたり、ワイブスたちも妊娠してる子は特に大事にされるとか。だけど、ワイブスたちはやっぱり、子生み女になるのがイヤだから逃げ出すのは、女性の役割から逃げたい映画なんだなと思って。
大 それは私も感じましたね。
真 女性の中にもいろいろ得手不得手があるので、フュリオサは、子生み女としては反発的過ぎたからウォーボーイズの大隊長の座になってるわけで。戦闘や車の運転が得意っていう女もいるし、ワイブスたちは、美しい以外に取り柄はほとんどないんだけれども、逃げる際に銃器に詳しくなっていったり、個性が出てくるのも面白いなと思いました。
大 スプレンディドが死んで、子供も結局死産になりますね。母親は死んだけど子供は生きてたということにしないで、子供も殺した。私はずっと頭の片隅に『エイリアン3』があったんで、エイリアンを孕んだリプリーが絶対にそれを外界に出さない決意で落ちていくのと、こっちの子供を死なせたのが、ともに再生産への抵抗に見えました。
真 そうですね。そこでやっぱり子供が生きてたら終わっちゃいますからね。
もう英雄を描くのにリアリティがなくなってきたっていう話なんですかね(大野)
大 あと、好きなシーンとしては、後半で武器商人がメチャクチャ追いかけてくるじゃないですか。暗闇をライトで照らしてやたら追ってくる武器商人を、マックスが撃とうとするんだけど、銃身が安定しない。それをフュリオサが取ってマックスの肩に銃身を固定して自分が撃って、相手の照明を撃ち抜く。あそこのシーンは凄く美しかった。
真 彼女の腕のほうが上だから、俺は肩を貸すっていう。
大 まさにそうですね。
真 女が、男性の得手だと思われていた役割を引き受けるっていうのは、その意味でもこの映画がフェミニストに受けたのがよく分かる。
大 たとえば「2」では最初に「昔々こういう男がいて」という語りがあり、マックスはかつての子供の中で偉大な英雄であり神話になっている。「サンダードーム」でも、最後にどこかに行き着いた子供の声で「あの男に助けられて」となって、語り継がれる英雄みたいなところにマックスが位置付けられているんだけれども、今回はそうじゃないですね。
真 基本フュリオサが頑張ってる映画なので、マックスは何をしていたんだっていうぐらいの存在感でしかない。
大 もう英雄を描くのにリアリティがなくなってきたっていう話なんですかね。
真 そうですね。女の英雄のほうがリアルだったんですよね、今回。
大 全体的に、闘う女性をクローズアップする傾向はあるんですか、ハリウッド映画では。
真 必ずしもそうでもないけれども、装飾にしないでおこうみたいな動きは出てきています。
大 装飾にしないでおこうというのは?
真 女性をお飾りにしないでおこうという傾向です。2015年はスパイものが流行ったんですが、女も凄く強い。昔のようにただ誘惑するお色気要員でいるんじゃなく、大の男2、3人だったら格闘技で倒せるような殺戮技術のある女の人が出てくるとか、そういう傾向はここ数年は大きいです。俳優さんたちの中でも、サイモン・ペグは出演作の『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』(15年)で、各キャラごとのポスターを作ったんだけど、女優のレベッカ・ファーガソンだけがレザーのぴったりした衣装で、腰をねじってお尻を向けたポーズになってたんです。それをサイモン・ペグは、「なんで僕ら男たちはスーツなのに。やめてくれよと思った」という批判をしました。そうやって、俳優からも「同業者の女性を性的対象としてだけ扱うのはやめようよ」っていう発言が出てきてるのは面白いなと思います。
大 なるほど、結構保守的な価値観が最近まで残っているんですかね、映画界に。
真 やっぱり男性が主役の映画のほうが客が入るとか、そういうこともありますね。
大 イメージとしては、女性を主人公にしたほうが女性の観客も取り込めるという計算もあるのかなと思いますけど。
真 アクションのほうが、客の入りはいいんじゃないでしょうかね、恋愛ものよりは。近年は恋愛映画がベストワンになるほどヒットすることはなく、やっぱり話題になるのは『007』『ミッション:インポッシブル』『スター・ウォーズ』とか、未だに王道のアクションが流行りますからね。ずーっと昔から、男性の仁侠映画も、高倉健が流行って、それが廃れてくると藤純子の女性の任侠ものになる。不良映画も、梅宮辰夫が流行って、それが廃れてくると、池玲子とか、ポルノ女優のスケバンもの、不良ものになっていくっていう流れがあって。『エクスペンタブルズ』という、シルヴェスター・スタローンやシュワルツェネッガーとかのアクション映画シリーズがありますが、あれも今度、女性版『エクスペンタブルズ』が企画されてるんです。
大 そうなんですか。
真 相変わらず、まず男性のアクションものが先行してあって、その人気が廃れてくると、女性でやってみようっていう流れはあるんだなって。
大 逆に、女性主役で先行しているものを、男性が主役で追いかけるっていう例はあるんですか。
真 パッとは浮かばないですね。去年、声があがり始めたのは、ハリウッドの女優さんたちによる賃金格差。「同じ主役であっても男性の主役のほうが必ずギャラが良くて、同じ仕事をしてるのになぜ、私たちのほうがギャラが安いのか」と問題提議されました。やっぱりまだ、ハリウッドは男性主体なんだと思います。